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武術の才能

武術の才能

稽古をするうちに、才能の有無を気にする人がいる。
でも、『武術の才能』なんてニッチな代物、持ち合わせてる人は滅多にいない。
優れて見える人も、大抵は他の資質を転用して上達に繋げてる。
身体が大きい、運動神経が良い、度胸がある、地味な基礎練習に耐えられる…人にはいろんな才がある。
僕の場合は頭脳だった。
身体的な才にはさして恵まれなかったが、頭は並外れて良かったので、師の見せてくれた技術を体系立てて解釈することができた。

本当の意味で武才がある、と感じた稽古仲間はかつて一人だけいる。
体格は僕と同程度、その時点ではズバ抜けて技量が高いわけではなかったが、稽古の発想が並みでなかった。
単純な動作一つの質をどう改良すべきか、そのためにどんな修練を繰り返せば良いか、そういう閃きを生み出せる才覚があった。
しばらく師匠の下で共に稽古し、じきに離れていってしまったが…あの人、武道もうやってないのかなあ。


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時間を止めない

自分と相手の時間軸が平等に流れない稽古はしたくない。
相手の剣を受け止めた後、自分だけもぞもぞ動いて位置を微調整したり。
腕を取って背後に回り込む間、相手の時間が止まったように棒立ちになっていたり。

型とは特定の技術を身に付けるために設定された条件であるから、何でも自由攻防のように反応していいわけではない。
それでも自分が一手指す時には相手にも同じだけの猶予が与えられている、ということを忘れてはいけない。
そういう稽古は物理的な技術を身に付ける助けにはいくらかなるかもしれないが、最も肝心な間の感性が狂う。


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膝行(しっこう)

膝行

その名の通り、座したままで前進・後退する移動法のこと。
合気道や茶道、小笠原流礼法にも同名の所作があるようだ。
元々は目上の相手が座っている前へ参上する際、上から見下ろしながら近づく無礼を犯さないために生まれた、と言われている。

とはいえ、天皇陛下でも立って迎えてくれたりする今日では実用的な意味合いは薄い。
それでもあえて膝行を稽古に取り入れているのは、そこに武術的な訓練効果があるからだ。
低い姿勢で動いて足腰の鍛錬?
違う。

僕らにとっての膝行は、あえて脚力に頼りづらい体勢を取ることで、脚遣いを根本から作り変えることにある。
自分の脚はどこから生えているのか、どこから動かすべきなのか?
それまでいかに筋力に頼って歩いていたかを知り、正座してもなお自在に遣える本当の脚とは何なのか、を再発見する。
脚を動かすために、脚を以てしない。

膝行

でも、膝サポーターは着けてる。
達人になる前に膝壊しちゃったら元も子もないからね。


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確かに打つ

大きく動く

ホームページに載せるため、久々に自分の動きを撮影してみたのだが、大いに反省するところがあった。
いつの間にやら、相手に合わせてほどほどで加減する癖がついている。
始めから型を成立させることを前提にした打ち込みは、真実味に欠けて見ていられたものじゃない。

動きは大きく、豪放に。
剣も身体も小さくしか遣わないのなら、動きが見えないのは当たり前だ。
大胆な動作が消えるからこそ怖いのだ。


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反復して、上書きして

反復して、上書きして

言わずもがな、技術の習得には反復練習が必要。
何度も何度も、細部に気を配りながら動作を繰り返し、いかなる時でも裏切らないように心身に覚え込ませる。

ところがしばらく時間が経つと、更なる先が見えてくる。
そうなると、かつて身に付けた感覚と技術は、一転して修正されるべき悪癖となる。
自分でしっかり染み込ませたものを、二度と顔を出さないように上書きしなくてはならない。

矛盾である。
今日の猛練習は、未来の自分にとっては悪い動きの繰り返し。
でも稽古とはそういうものだし、そうでなくては進歩が止まる。


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座技

座技

座り技の要諦は脚を遣うこと。
といっても、低い姿勢で下肢の筋力を鍛えるとか、そういうことじゃない。
座して脚部を動かせない条件でなお、確かに遣える脚の基点を目覚めさせること。


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萌芽を大事にする

萌芽を大事にする

ちょっと気の利いた工夫を思いついて、これで自分の動きが随分と改善されるように感じることがある。
ところが対人で検証してみると、思ったほどには劇的な効果を上げるものでもない。
なあんだとがっかりして、そのことは綺麗さっぱり忘れてやり直し。

ではもったいない。
アイデアは優れていても理解が浅い、使いこなせていない、さらに応用が必要。
そういう理由ですぐには結果に繋がらないことはよくある。
最初のひらめきを信じて、しばらく掘り下げて稽古を重ねてみる。

あとは上位者、特に指導員の役割だ。
ちょっとした進化の兆し、時には本人も気づいていない美点を、たとえ微弱であっても、まだまだ通用しなくても、それを見つけて拾ってあげること。

せっかくの萌芽を潰しちゃダメ。


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武術と運動神経

武術と運動神経

今でこそ古武道の先生として偉そうに身体の遣い方を教えているが、実は子供の頃から運動は大の苦手だった。
逆上がりも後転もできないまま義務教育を修了し、ボールを投げれば5m離れた相手にストライクが入らない。
手元に残っているスポーツテストの結果表によると、握力は中3で20kgしかなかった。
長距離走だけはそこそこ速かったが、それ以外は何をやってもずっと最下位レベルであったと思う。

そういうわけで、今の僕がやっていることは素の身体能力ではなく、全て意識的に積み重ねた技術によるものだ。
如何に立つか、如何に歩むか、如何に上げ、如何に下ろすか、逐一理屈を考え抜いて感覚を作り込んだ。
そもそも武術というのは自分より優れた相手を想定したところから始まるのだから、心身の遣い方を根本から作り変えていく過程は誰にとっても等しく険しい。
生来の運動神経に自信がない人も、どうぞ遠慮なく門戸を叩いてほしい。

萬葉塾会員の中には日体大の卒業生もいる。
地の運動能力で言えば僕なんぞが身体の動かし方を教えられるはずがないのだが…
術とは不思議なものである。


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試斬の稽古

試斬の稽古

せっかく昨年末に真剣を買ったことだし、実に三年ぶり以上で久々に物を斬ってみた。
台の上に固定せず置いただけの牛乳パックは、力めば潰れて吹き飛んでしまいこれはこれで難しい。
動く人間相手ならその場の変化でどうにかできていたものも、対物になると細かな身体遣いの甘さがよく解る。

結果は大して出来のいいものではなかったが、斬るためだけの稽古をしない、という意味は以前よりも見えてきた。
必要なのは試斬のための技術を身に付けることではなく、普段の対人稽古での動きを真剣ならば斬れて当然のものに練り上げていくこと。


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十手の研究

十手の研究

先日拵えた十手を、稽古場で色々と実験してみている。
当初は小太刀の用法を応用すれば何とかなるかと考えていたが、どうやら思い違いをしていたらしい。
逆だ。十手が基本なのだ。

正確には、ある程度剣術を身に付けた者が十手を持つことで根本の原理を再確認できる、というところだろうか。
そもそも道具はシンプルに留めて、扱う人間の性能を向上させていくことを日本武道の方向性と考えている僕にとっては、相手の武器を搦めとる目的に特化させた形状には違和感があった。
しかし、鉤に頼って即物的に用いるのではなく、あくまで相手の中心を制することを忘れなければ、不思議なことに刃のない武具である十手が刃筋というものをより明確に教えてくれる。
稽古するうち、指導員の一人は十手を指して『補助輪』と称した。
言い得て妙である。
やがて鉤は要らなくなり、あるいは全ての剣に視えない鉤が生まれてくる。


そして、やってみて解ったことがもう一つある。
日本人は十手を持つと『御用だ』と言わずにいられない(笑)


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プロフィール

ピンクさむらい

Author:ピンクさむらい
東京都武蔵野市にて、古武道萬葉塾を主宰。

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