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受身 【実践編】

前回からの続き、実生活で受身が役立った経験その①。

10年くらい前、上野動物園内のフードショップでバイトしてた時のこと。
売店隣のウッドデッキで待つお客さんに揚げたてのチキンBOXを届けようとしたのだが、その日は雨上がり。
濡れた床板はぬるぬると滑り、足を取られて思い切りバランスを崩してしまった。
数歩よろめいたところで立て直しを諦め、手に持った商品は水平に維持したまま華麗な後受身で軟着陸した。
驚いた顔のお客さんに「チキンは無事です」と箱を手渡し、颯爽と店内に戻ったのであった。
受身【実践編】-1


そしてもう一つ、受身の経験その②。

この時は老人ホームで働いていて、夜勤明けに自転車に乗っての帰り道でのこと。
疲労で注意散漫だったのだろう、赤信号に切り替わったタイミングで飛び出し、横道から出てきた乗用車に撥ねられた。
その瞬間、一瞬で状況を把握し、すごく冷静に思考を巡らせたのを覚えている。
自分の自転車に身体が巻き込まれるとまずいなと思い、撥ね飛ばされながら車体を持ち上げて身体から遠ざけ、意識的に顎を引いて頭部を守って転がった。
車が動き出したばかりで速度が出ていなかったこと、直接衝突したのが身体ではなく自転車の前輪だったこと、そして撥ねられるまで車の接近に気づいていなかったことがかえって幸いした。
ぶつかる直前に車が見えていたら、緊張して身体を固めてしまったかもしれない。
着地の際に両の前腕を擦りむいたが、それ以外は痣一つ作らずにすんだ。
運転していたご夫婦は病院に行きましょうと言ってくれたが、「いえ、受身を取りましたので」とかっこよく言い残し、ひん曲がった自転車を押して去ったのであった。
受身【実践編】-2

受身は大いに役に立つ。
そして、良い子のみんなは赤信号に飛び出さないよう気をつけよう。


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受身

受身

正直言って、古武道の技法がそのままの形で日常生活に活かされることってほとんどない。
そりゃまあ、稽古で培った基本原理が暮らしの質をじんわりと高めてくれたりはするけれども、夜道で突然大上段に打ち込んできた不審者を剣術奥義・下段籠手で成敗する機会は一生のうちに…多分、ない。
そんな中唯一、即物的に役立つというか、現代人にとっても身につけておいて大いに有益だと思えるものがある。

受身である。

昨今では、高齢者向けの転倒予防体操として脚力強化のプログラムなんかが広く行われていて、それはそれで非常に素晴らしいことであり、みんな足腰がどんどん強健になればいいと思うのだけれど、じゃあ死ぬまでどこにも躓かず一度も転ばずに過ごしなさいって言われると、さすがにちょっと自信がない。
この先あと50年近く生きたとして、一回くらいはうっかり足を滑らせることも避けられないんじゃないかなあ。
そんな時へのもう一つの備えとして、身体を壊さずに受身を取れる技巧は持っておいて損はない、と思う。

そして面白いことに、うまく転べるようになると、逆に今度は転ばなくなる。
いざとなれば受身を取れる自信があるから、バランスを崩した時にも落ち着いて、力まず柔らかなまま対処できるようになる。
受身が身についていることで、受身を使わざるを得ない状況に自分を追い込まずに済む。
武の理想形である。

ここまで書いているうちに、実際に僕の人生の中で受身が役に立った事例を二つばかり思い出した。
続きはまた次回。


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呼吸法

呼吸

最近、稽古場で会員たちを見ていて気にかかること。
呼吸が浅い人が非常に多い。
10秒間、続けて息を吸えない人が何人もいる。

まずは、深く大きく、呼吸ができるようにすること。
特殊な呼吸法とか、丹田とか氣とか、そういう小難しいのはとりあえず置いといていい。
肺を浅くしか遣えていないうちにそんなの気にしたって解りっこない。
腹を柔らかく動かし、長く、たくさん吸って、たくさん吐く。
素人の呼吸法なんてそれで充分。

もちろん呼吸が巧いから武術が強いというわけではなく、それはあくまで要素の一つに過ぎない。
それでも呼吸の深さは身体深部の脱力、柔らかさと密接に関係している。
持久力、疲労の回復、深部からの発力、意識の置き方、様々な面で影響を受ける。
少なくとも、僕は息遣いが下手なまま柔らかな動きに秀でた人を見たことがない。

特に稽古場で時間を割いて取り組んだりはしないのだけど、こういうのは日常の中でちょっとずつ。
ふと気がついたときに、意識してちょっと多めに吸って多めに吐く。
あまり難しく構えずに気長にやってると、そのうち身体が変わる。


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型と個性

型と個性

型稽古に個性は要らない。

スパーリング主体の稽古体系ならばそれぞれの得意手を伸ばしていくことはむしろ必須であろうが、型においては徹頭徹尾、指定された条件を指定された方法で打開してゆくことのみが求められる。
そこでは個人の特性を活かした奇手を放つことは許されない。

こう書くとずいぶん窮屈に思えるが、それも型稽古から得られる理合に自分に思いつく程度の策など軽く超えていく価値があると思えればこそだ。
各人個別の得手に頼ることを許さないということは、言い換えれば型は誰しも習得し得る心身の遣い方を伝えようとしているということになる。
その技法が根源的で理に適っているからこそ、そこに個人の工夫を差し挟んでは本来の意義から遠ざかってしまう。

試行錯誤は全て、我を抑え、型の伝えんとする理合を読み解くことに傾ける。


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剣を受ける

剣を受ける

初心者が初めて相手に向かって木刀を打ち込む稽古が斬返(きりかえし)であり、その次には反対に相手の斬返を『受ける』稽古をすることになる。
萬葉塾においては、この受けを大切な基本として重視し、徹底して身につけてもらっている。
頸部を狙った速く重い打ちを相手に、受け損ねれば大怪我をする可能性もある。
上級者の巧みな打ちは脅威だし、かといって素人の出鱈目な剣筋もまた厄介だ。
この受けがある程度満足にできるようになって初めて、お互いに攻防をやり取りする型稽古に進むのが、安全性においても技術の積み重ねという点においても妥当であろうと考えている。

またそれは、剣を学んでいく上での心の構えを知ることでもある。
攻め込まれる恐怖に身が竦んでしまうこともあるが、逆に打たれている最中だというのに今一つ危機感が足りない人もいる。
剣術において、初めから上位者の手加減を見込んで臨んではいけない。
どんな熟練者だって、ふとした拍子に手元が狂うことはあり得る。
手順の決まった型稽古を通してなお、極限の状況下で斬り結ぶ技量の習得を目指すのだから、上級に進むにつれそれはますます危険な、ギリギリの紙一重を狙った攻防になっていく。
柔らかく落ち着いていることは大切、しかし自分は命を危険に晒す稽古をしているのだという緊張感も共存している、そういう備えの在り方を受けの稽古を通じて見つけてほしい。


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古武道とは何か?

古武道

そもそも古武道とは……『明治維新以前の日本において発祥した各種武術の総称』、という定義になるだろうか。
それ以降に隆盛した現代武道、例えば柔道や剣道なんかと区別するために後世になって作られた、いわゆるレトロニムと言われる語だ。
エレキギターが誕生して、それまでただ『ギター』と呼ばれていた楽器が『アコースティックギター』になったのと同じである。
江戸時代のお侍さんが自分たちのやってることを『古』武道だと思っていたか?
そんなはずはない、彼らにとってはそれが現在進行形だったのだ。

しかもそこには、武芸十八般とも言われる様々な技芸が含まれる。
剣術、居合術、杖術、柔術、弓術、十手に薙刀、馬術に砲術、さらには水泳術なんかも入ったりする。
さらにそのそれぞれに千差万別の流派が存在し、〇〇流、△△流、その一つ一つがまるで違ったことを伝えているのだ。
そう考えると、古武道とはこういうもの、という共通する前提なんか存在しないことが解ってくる。

だから僕は、自分たちにとっての古武道はもっと個人的なものでいいと思っている。
伝統ある流儀を次代に受け継いでいく立場の方々にはまた別のご苦労があるのだろうが、そうした責務も古式の復刻といったことへの関心もない以上、僕は理に適った心身の遣い方を探究するために、便宜上古武道と呼ばれているそれを選んだに過ぎない。
古流の型を用いて稽古し、しかしながらその稽古法も先人とは大きく異なっている部分が多いであろうことを承知の上で、そこから読み解かれ自身の裡に染みついていくもののみに価値を置く。
曖昧な古武道の枠すら明らかに逸脱することもしばしばあるが、それが根源の理に近づく助けになるならそれもまた良し。

萬葉塾において『古武道』という概念の持つ意味合いはそんなところである。


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二刀の剣術

二刀

来週末に開かれる公開講座に備える意味もあり、ここ最近は二刀の稽古に多く取り組んでいる。
二刀流と言って最初に思い起こされるのは、やはり宮本武蔵だろうか。
流儀によって色々のようだが、僕らの二刀は右手に大太刀、左手に小太刀を構える一般的なスタイルである。

漫画やゲーム等、フィクションにおける二刀使いは大概スピード特化の強キャラだったりするが、実際にやってみるとそんなに有利なものでもないというのが正直なところだ。
両手持ちの一刀に対し、片手遣いの二刀ではそんなに速くは触れないし、単純な破壊力では比ぶべくもない。
自然と相手の攻撃をまともに受けずに捌く戦い方に意識が向くが、そもそもそんなに動けるなら刀は一本で足りる。

むしろ、少なくとも現時点での習熟度においては、二刀型は自らを不利な状況に置くことでの学びと捉えている。
一刀を自在に操る打太刀に対し、扱い難い二刀はいかに活路を見出すべきか?

どうやって精緻に剣と体を合致させ、一刀に抗し得る圧を生み出すか。
長短二本の刀をどう使い分け、間合の変化を自分のものにするか。
誘いと捌きの意味をどれだけ深く理解し、空間を制していけるか。
そこから得たものは当然、二刀を捨て一刀に還った時にも存分に活かされる。


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刀の長さ

刀の長さ
(上から木刀/二尺四寸五分/二尺五寸/二尺七寸/二尺八寸)

通常、居合の稽古においては真剣の代用として合金製の模擬刀を用いるが、その重要な要素の一つに刀の長さ、がある。
抜ければ良いのであれば当然短い方が容易く、長い刀を扱おうと思ったら相応の技量が必要になる。
ほんの一寸、3cm程度の違いが使用者にとってはまるで別物となり得る。

萬葉塾では、常用する模擬刀は刃長二尺四寸五分(約74.2cm)を基準とし、あるいはそれ以上の長さのものから選んでもらっている。
おそらくこれは、一般に多くの居合道場が定めるものよりもだいぶ長い。

もちろん、長い刀には長い刀の、短い刀には短い刀ならではの学びがある。
それでもこの長さを基準としているのは、現に小柄でもこれ以上の長さを無理なく使いこなせる会員がいること、そしてそもそも剣術稽古に用いる木刀がこの長さで作られているからだ。
短軀を理由に短い模擬刀を使ってしまったら、じゃあその木刀どうやって抜いたことになってるんだよ、となる。

あ、剣術用の木刀もちょん切って、短くして使うんならOKだね。
それなら筋は通る。


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せんせいはうそつき

せんせいはうそつき

指導者の言葉というのはいつも変わらず、正しく一貫しているものなのか。

残念ながらそんなこたぁない。
実際、僕は弟子に対して教えることがちょこちょこ変わる。
肘って言ってたのが背中になったり、横からやってたものが縦からになったり、ひどい時は素振が一種類、やっぱりいらないやって消滅しちゃったりもする。

でも、それで良い。そうでなくてはいけない。
変わるのは指導者自身が常に考え、より高い技量と理解を求め続けているからだ。
むしろ何十年も変わらず、同じことを同じ言葉で教えている先生の方がヤバイ。

技芸をきちんと身につけようと思ったら、自らさらに上達しようと思っている先生に習わなくちゃいけない。
そしてそういう先生は、自身を改めるたびに以前の教えを書き換えながら進んでいく。


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スパーリング

スパーリング

最近は、先だって昇級し初段が視野に入ってきた会員とともに、打撃の自由攻防の稽古に取り組んでいる。
日頃は手順の定められた型稽古、それも剣術を中心に精を出している僕らだけれども、こうした素手のスパーリングから学べることも多い。
痛い。怖い。疲れる。焦る。欲が出る。
情報が混線し、身体が固まり、型を通じて磨き上げた精緻な身体運用がまるで出せなくなっている自分に愕然とする。

そうして得たものをもう一度型の中に還した時、すでに型稽古はこれまでとは変質している。
型の設定は個別の絶対的な状況ではなく、技術を学ぶための仮想の環境に過ぎず、それすらも切り取られた一瞬に過ぎないものとして、さらに流動的な変化の可能性を含めて見えないその外側までもを包括的に曖昧に捉えておかなければ実際には役に立たないことがわかる。

型と組手を二者択一ではなく、適切なバランスで循環させていくことを考える。


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プロフィール

ピンクさむらい

Author:ピンクさむらい
東京都武蔵野市にて、古武道萬葉塾を主宰。

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