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過去の演武

桜花2019

久々に、ホームページに上げた三ヶ月前の演武の動画を見てみた。

……あれ?
固い。初動が見える。
腕ばかりがよく動く。
捉えるべき間も合っていないように感じる。
もうちょっと巧いと思って載せたはずだったんだけどな。

撮影してからしばらく経つうちに、自分自身の求めるものが前より厳しくなっている。
おそらく、過去の自分が下手に見えるのは好ましいことなのだろう。
願わくば審査眼だけでなく、実際の技量もともに上がっていると良いのだけれど。


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ゆっくりの稽古

ゆっくりの稽古

ここのところ、剣術型をゆっくりと行なう稽古を多く取り入れている。
互いに同じ、減速された時間軸を想定しながら、できる限り丁寧に動いていく。

すると、「間に合わない」と感じる瞬間が出てくる。
相手はゆっくり向かってくるのに、ここからでは自分の手数が一手遅れる、と分かる。
攻防の間に、合わせることができない。

そうしたら、より速く動ける練習をする、のではなく、そこに至る前の動きを見直す。
詰みが決まってしまった局面から遡って、それ以前の自分の備え、初動の遅れを考える。
その瞬間になおゆっくりの動きでも対応できるように、そこまで自分はどう動いておかなければならなかったのか、を理解する。
高速の中では見落としてしまいがちな、「間」という観念の糸口が、ゆっくりの稽古の中でこそ見えてくる。


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basic04


型稽古には手順がある。
型を導く打太刀(うちだち)と、それに付いていく仕太刀(しだち)、双方が定められた通りに手順をなぞっていくと、綺麗に整った、意味のない予定調和が出来上がる。
それではいけない。

きちんと作られた型は詰将棋に似ている。
特定の条件の下で、打太刀が問いを投げかけ、仕太刀がそれに応える。
型においては、最後は上位者であるはずの打太刀が取られて終わる。
それは勝ち負けではなく、自らの出題に仕太刀が正しく応えたのを認めるからだ。
だからもちろんのこと、打太刀は正解を知っていなければいけない。
何でもかんでも手順を追うのではなく、型に定められた条件通りに剣を打ち込み、理に適わないものは受け付けない厳しさを持たなくてはいけない。

その上でなお、型の非実戦性をも知る必要がある。
果たして、戦闘中に相手の前で座り込む場面がどれだけあるだろうか?
時に非現実的な状況設定は、身体能力や展開の変化を限定し、技術を習得せざるを得ない局面に修行者を追い込む意味がある。
型の出題者が、後進に気づいてほしい、身につけてほしい、と込めたメッセージがそこにはある。

型「を」稽古するのではなく、型「で」稽古する、ということ。


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ここ最近は、踵から歩むこと、をよく意識する。

前に進むために差し出す足はまず踵から接地し、爪先へと身体が移動していく。
黒人ランナーが速さを出すために用いる走法とはまるで違う。

でも、僕の身につけてきた武術の理に適うのはこちらの方だな、と思う。
速力よりも動きが見えぬこと、様々な変化に対応できること。
踏み出した踵から指先までの20数cm、その僅かな伸びしろに相手を抑え、誘い、攻防を制する要諦が込められている。


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肚に鎮める

肚に鎮める

肚(はら)、あるいは臍下丹田(せいかたんでん)。
今年に入って、この肚の感覚を大切に稽古に取り組んでもらっている。

力の抜けた胸肩の重みは肚に納まる。
手足は常に肚から導く。
肚で押さねば相手の全身に通らない。
肚が浮けば軽くなる、その状態から事を成そうとすれば無茶になる。

気のイメージや抽象的な感覚としてだけではなく、肚は常に武術の動きの中で使っていく必要がある。
一見して曖昧で心もとないこの感覚を、どれだけ確信あるものにしていけるか。


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基礎の稽古

兎にも角にも、基礎が重要なのは当然のこと。
でも、その取り組み方は一つではない。


右も左もわからぬ初心のうちは、信頼できる師匠がこれをやりなさいと提示してくれたもの、それこそが基礎の稽古。
懸命に、丁寧に、それをなぞってゆけばいい。

少し歩が進んだら、それがなぜ基礎とされているのかを考える。
形や手順ではなく、そこに込められた身につけるべきもの、どうしてそれが必要なのか、大切なのか、に気づく努力をする。

やがてより高度な課題に向き合ったときには、しっかりと培ってきた基礎は自分を測る鑑になる。
うまく結果が出せないのは、一見した複雑さに気を取られ、自分が基礎に反した動きをしているからかもしれない。
基礎を頼りに応用を探り、そしてまた基礎を見つめ直す。


いずれも同じ、基礎を大切にするということ。


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考えて稽古する

稽古中はとにかく考えること、頭を使うこと。

今は何の稽古をする時間なのか、そこから何が得られるのか。
指導者は何を伝えたいのか、気づかせたいのか。
型の目的と手段は何か、今の自分に足りない技術は何か、周りの人間はどうやろうとしているのか。

とにかくいろんなことを考えて、ただ何となく、漫然とした動作を一太刀たりともしないように努める。
考えてみてもわからないからといって、ええいと投げやりな真似をしないこと。
それは稽古相手に対して失礼だし、危険も伴う。

かといって、考えすぎて立ち止まってしまうのもまた違う。
創意工夫は大切だけれど、こんがらがって雑念にまでなってしまうのもまた悪い。
しっかり考えること、でも考えすぎないこと、そのバランスの取り方も含めてまた稽古の姿勢を考えること。

『稽』の字は、かんがえる、と読む。


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歩くということ

ここ最近、自身の歩法を改めて見直している。

地を蹴らず、踏みしめず、居着かず、気取られず。
これまでも相当に考えてきたつもりだったけれど、今のレベルで省みると、まるで疎かにしていたことが山ほどあると気がついた。
ただ立って、一歩を踏み出すことから作り直し。

そうするうちに、徐々に自分の足が自由に動くようになり、それにつれ、これまで気づいていなかった他人の強張りが不思議と見えるようになってきた。
剣を打ち込む、受ける、躱す、その度に足が力んでその場に居着く。

自分よりも優れた歩法の遣い手には敵うはずもない。
いついかなる時でも自由に歩めるというのがいかに大切で難しいか。


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裡にしまっておく

武術に限らず、何事も道を極めんと懸命に取り組んでいると、ひどく自分の小ささが感じられていたたまれなくなることがある。
自分は覚えが悪い、才に恵まれていない、自分がぶつかる壁を簡単に乗り越えていく人がいる。
そういう煩悶が生まれるのはごく自然。

でも、口には出さない。
焦りや悩みは胸の中にそっととどめておく。
モヤモヤした苦しさを抱えたまま、ガス抜きのための逃げ道を与えず、ひたすらに努力と工夫を重ねる。
すると不思議なことに、裡に蓄えられた懊悩は翻って進化のためのマグマになる。
いつかその先のレベルに、自分自身を引き上げてくれる。

裡にしまっておく、ということ。


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黒を作る

「黒の絵の具は使わない」

細かい記憶が曖昧なのだけれど、たぶん中学校の美術の時間に言われたのだと思う。

「画面に黒が欲しいとき、黒の絵の具を使うことはしない。
その代わり、白と黒以外の色をたくさん混ぜ合わせて自分で黒を作る。
そうしてできた黒はただチューブから搾り出した黒よりも深みがある」

武術の修行にもそれは言える、と思う。
優れた人は非常にシンプルな言葉を使う。

「ただまっすぐに斬るだけだ」

でも実はその言葉の陰には膨大な試行錯誤があって、上下・左右・前後、様々な要素が複雑にバランスを成した上での『まっすぐ』だったりする。
表面だけ見ていてはそれはわからない。

だから、時には遠回りに見える稽古にも意味がある。
早く画用紙を黒に塗りたいのに、自分はなぜ緑やら紫やらを混ぜ合わせているのか。
実はそれは、最後にとても単純な一筋の剣に辿りつくために不可欠なことなのかも知れない。


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プロフィール

ピンクさむらい

Author:ピンクさむらい
東京都武蔵野市にて、古武道萬葉塾を主宰。

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