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受ける

uke01

萬葉塾の基準においては、相手が出力した以外の力をつけ加えてしまったら、それは基本的には悪い受けになる。

力んで固める、自分から転がる、身体を捩って逃がす、禁忌とされる行動は多々あれどどれも根は同じ、相手が与えてくる力に余計なものを添加しない、というその一点に尽きる。
ただただ、掛け手の力の鏡になる。

受けは技術ではなく、柔らかな心身の状態そのもの。


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10年の節目

古武道の門を叩いた日から、今日でちょうど10年になる。

10年前の8月1日、緊張しながら師の稽古会を訪ねた時、室内には師の他にすでに先輩が二人いた。
まだ稽古まで時間があったので、色々と基本を教えてもらい、なぜか勢い余った先輩に顔面チョップを喰らわされたのを覚えている。
その日の稽古は自分の理解をまるで超えることの連続で、その場にいる全員が遥か遠い達人のように見えた。

あの頃はいずれ師の下を離れ、自分の団体を持って独立することになるなんて夢にも思わなかった。
今になってみれば、それが良かったのだ。
自分自身に将来の目標を課さず、ただ上達のみを義務としていたからこそ、週に6日の稽古場通い、昼間はひたすらに自主練という日々に没頭できた。

初めて独立を意識したのは入門から3年が経つ頃、当時師範代を務めていた大先輩が独立すると発表があった時だ。
それまではなぜか、一門の長になるなんて普通の人間がやろうと思ってできることではないと思っていたのだが、目の前でその選択をした人を見て、そういう生き方があるのだと初めて気がついた。
その日以降は、変わらず技術を学び続けながら、胸の裡では自分自身で稽古会を主宰するならどのように行なうかをも考えた。
不実な弟子である(笑)

あの頃の日々と、代表となった今とでは稽古のあり方は大きく違う。
師も先輩もいない。弟子を育てる義務がある。
互いに砥石となれる門下生を育成することができなければ、いずれお山の大将になって自分の技術が腐る。
次の10年は、弟子を鏡に自らを育てる時間にしなくてはならない。


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武術か、スポーツか

僕にとっては、互いに磨き上げた100%の結晶をぶつけ合うのがスポーツであり、その素晴らしさ。
そうはいっても人間調子が悪くて実力の70%しか出せない時もあるし、じゃあ予め相手を30%にしとけば勝てるんじゃないの、って考え方を始めたら武術かな、と考えている。

とはいえそれは安直なズルに頼れということではなくて、柔の身体や中心感覚に基づいて、自他を含めた場のコントロールを握る確かな技術が必要になる。
卑怯な戦い方をするために、実直な稽古を積み重ね、嘘偽りのない技量を身につける。


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回らない

kesa01

身を躱すとか相手の剣を退かすとか、そういうことではなくて、ただ三角を合わせてまっすぐに中心を抑える。
それだけのことを理解するのに十年かかった。


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過去の演武

桜花2019

久々に、ホームページに上げた三ヶ月前の演武の動画を見てみた。

……あれ?
固い。初動が見える。
腕ばかりがよく動く。
捉えるべき間も合っていないように感じる。
もうちょっと巧いと思って載せたはずだったんだけどな。

撮影してからしばらく経つうちに、自分自身の求めるものが前より厳しくなっている。
おそらく、過去の自分が下手に見えるのは好ましいことなのだろう。
願わくば審査眼だけでなく、実際の技量もともに上がっていると良いのだけれど。


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ゆっくりの稽古

ゆっくりの稽古

ここのところ、剣術型をゆっくりと行なう稽古を多く取り入れている。
互いに同じ、減速された時間軸を想定しながら、できる限り丁寧に動いていく。

すると、「間に合わない」と感じる瞬間が出てくる。
相手はゆっくり向かってくるのに、ここからでは自分の手数が一手遅れる、と分かる。
攻防の間に、合わせることができない。

そうしたら、より速く動ける練習をする、のではなく、そこに至る前の動きを見直す。
詰みが決まってしまった局面から遡って、それ以前の自分の備え、初動の遅れを考える。
その瞬間になおゆっくりの動きでも対応できるように、そこまで自分はどう動いておかなければならなかったのか、を理解する。
高速の中では見落としてしまいがちな、「間」という観念の糸口が、ゆっくりの稽古の中でこそ見えてくる。


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basic04


型稽古には手順がある。
型を導く打太刀(うちだち)と、それに付いていく仕太刀(しだち)、双方が定められた通りに手順をなぞっていくと、綺麗に整った、意味のない予定調和が出来上がる。
それではいけない。

きちんと作られた型は詰将棋に似ている。
特定の条件の下で、打太刀が問いを投げかけ、仕太刀がそれに応える。
型においては、最後は上位者であるはずの打太刀が取られて終わる。
それは勝ち負けではなく、自らの出題に仕太刀が正しく応えたのを認めるからだ。
だからもちろんのこと、打太刀は正解を知っていなければいけない。
何でもかんでも手順を追うのではなく、型に定められた条件通りに剣を打ち込み、理に適わないものは受け付けない厳しさを持たなくてはいけない。

その上でなお、型の非実戦性をも知る必要がある。
果たして、戦闘中に相手の前で座り込む場面がどれだけあるだろうか?
時に非現実的な状況設定は、身体能力や展開の変化を限定し、技術を習得せざるを得ない局面に修行者を追い込む意味がある。
型の出題者が、後進に気づいてほしい、身につけてほしい、と込めたメッセージがそこにはある。

型「を」稽古するのではなく、型「で」稽古する、ということ。


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ここ最近は、踵から歩むこと、をよく意識する。

前に進むために差し出す足はまず踵から接地し、爪先へと身体が移動していく。
黒人ランナーが速さを出すために用いる走法とはまるで違う。

でも、僕の身につけてきた武術の理に適うのはこちらの方だな、と思う。
速力よりも動きが見えぬこと、様々な変化に対応できること。
踏み出した踵から指先までの20数cm、その僅かな伸びしろに相手を抑え、誘い、攻防を制する要諦が込められている。


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肚に鎮める

肚に鎮める

肚(はら)、あるいは臍下丹田(せいかたんでん)。
今年に入って、この肚の感覚を大切に稽古に取り組んでもらっている。

力の抜けた胸肩の重みは肚に納まる。
手足は常に肚から導く。
肚で押さねば相手の全身に通らない。
肚が浮けば軽くなる、その状態から事を成そうとすれば無茶になる。

気のイメージや抽象的な感覚としてだけではなく、肚は常に武術の動きの中で使っていく必要がある。
一見して曖昧で心もとないこの感覚を、どれだけ確信あるものにしていけるか。


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基礎の稽古

兎にも角にも、基礎が重要なのは当然のこと。
でも、その取り組み方は一つではない。


右も左もわからぬ初心のうちは、信頼できる師匠がこれをやりなさいと提示してくれたもの、それこそが基礎の稽古。
懸命に、丁寧に、それをなぞってゆけばいい。

少し歩が進んだら、それがなぜ基礎とされているのかを考える。
形や手順ではなく、そこに込められた身につけるべきもの、どうしてそれが必要なのか、大切なのか、に気づく努力をする。

やがてより高度な課題に向き合ったときには、しっかりと培ってきた基礎は自分を測る鑑になる。
うまく結果が出せないのは、一見した複雑さに気を取られ、自分が基礎に反した動きをしているからかもしれない。
基礎を頼りに応用を探り、そしてまた基礎を見つめ直す。


いずれも同じ、基礎を大切にするということ。


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プロフィール

ピンクさむらい

Author:ピンクさむらい
東京都武蔵野市にて、古武道萬葉塾を主宰。

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