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棒術の研究

棒術の研究

最近は夜毎、自宅前の路上で六尺棒の稽古に精を出している。
街灯の下180cmの白樫棒を振り回す姿を、近隣の住民はさぞ不審に思っているに違いない。
稽古と言っても、棒術に関してはそこまで掘り下げて学んできたわけではないので、まだまだ手探りの状態である。
とりあえずは廻したり、打ったり突いたり、同じ系統の杖術と遜色なく取り扱えることを目指しつつ、より長大な棒ならではの遣い方を探っている。

とりあえず、まずは棒の重量に踊らされないところまでは来たように思う。
不思議なもので、片腕で20kgのダンベルを扱える腕力があっても、1kgを少し超える程度の棒を力で制するのには苦労する。
決して体を開かず、常に自分の正中と結び、肚からの動きを起点に操ってゆく。
他の全ての武器にも通底する基本原理が、手先では遣い難い長物に接することでよりはっきりと見えてきた。

おまけに、いくら技術で扱うことを心がけてもやはり身体にはそれ相応の負荷がかかる。
動いてるうちにナチュラルにガタイも良くなりいいことずくめである。


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脱力の先

脱力を知る作業は土地を均すのに似ている。
無駄なこわばりや染みついた体癖を抜き去り、まずは混じり気のない更地を整える。

ここまででも充分に大変だが、その先はそこにしかるべき力の道筋を通さなくてはならない。
局所的な発力に頼らず、深部から身体を繋ぎ、柔らかくかつ力強い流れを作っていく。
それはただ力を抜き去るだけで得られる受身の柔らかさとは違う。
動作に際してプラスに働く身体内部のその力感を、氣と表現する人もいるかもしれない。

力に頼らないということは、どれだけ力を巧く遣えるかの勝負ということでもある。


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初心者に教える

初心者に教える

ありがたいことに、ここ最近新規入会者が相次ぎ、稽古場に新人が増えてきた。
萬葉塾の指導方針としては、当然といえば当然なのだけれど、なるべく初心の内から理に適った丁寧な稽古をしてもらう、というのを心掛けている。

型稽古においてはただ何となく素早く動く、力いっぱいに強い剣を振るう、そういう雑な動きが存在してはならない。
常に自分の動作一つ一つの仕組みを問い直し、型に込められた学びを見つけるべく考え続ける必要がある。
もちろん初心者の理解度なんてたかが知れているから、そこまで体現できなくて一向に構わない。
それでも、『型で稽古する』ということのために必要な取り組みの姿勢を、早い段階で気づいてほしいのだ。

そして結局のところ、その方が後々になって教える側も楽になる。
今、始めて二年を過ぎたくらいの会員同士が、僕がさほど口出ししなくてもしっかりと型と向き合い、濃密な組太刀の稽古をしてくれている。
新人にこそ細かく稽古の筋道を説き、上達するにしたがって指導者が目を掛け過ぎずとも自ら考えて発見できるようになってもらう。
そんなのが理想かな、と思っている。


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杖を廻す

杖を廻す

『つえ』ではなくて、『じょう』。
合気道や杖道でも用いられる、長さ四尺二寸一分≒128cmの木の棒である。
打突によって相手を攻撃するための武器だが、萬葉塾ではこれを廻す稽古を好んで行なっている。

杖を廻す、このシンプルな練習法が身体を練るという点でかなり効果が高い。
力みが強く固まりがちな人は、廻すうちに次第に柔らかくほどけてくる。
反対に筋力が弱くただふにゃふにゃになりやすい人は、程良い力感をもって全身が繋がってくる。
求めるのはバルクのある肉塊というよりも、薄い筋膜で覆われた全身が靭やかに連動しているようなイメージだろうか。

もちろん、杖をいくら上手に廻せるようになっても武にはならない。
あくまで武術の技法を体現できる基礎的な身体を練るための訓練法である。


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受身 【実践編】

前回からの続き、実生活で受身が役立った経験その①。

10年くらい前、上野動物園内のフードショップでバイトしてた時のこと。
売店隣のウッドデッキで待つお客さんに揚げたてのチキンBOXを届けようとしたのだが、その日は雨上がり。
濡れた床板はぬるぬると滑り、足を取られて思い切りバランスを崩してしまった。
数歩よろめいたところで立て直しを諦め、手に持った商品は水平に維持したまま華麗な後受身で軟着陸した。
驚いた顔のお客さんに「チキンは無事です」と箱を手渡し、颯爽と店内に戻ったのであった。
受身【実践編】-1


そしてもう一つ、受身の経験その②。

この時は老人ホームで働いていて、夜勤明けに自転車に乗っての帰り道でのこと。
疲労で注意散漫だったのだろう、赤信号に切り替わったタイミングで飛び出し、横道から出てきた乗用車に撥ねられた。
その瞬間、一瞬で状況を把握し、すごく冷静に思考を巡らせたのを覚えている。
自分の自転車に身体が巻き込まれるとまずいなと思い、撥ね飛ばされながら車体を持ち上げて身体から遠ざけ、意識的に顎を引いて頭部を守って転がった。
車が動き出したばかりで速度が出ていなかったこと、直接衝突したのが身体ではなく自転車の前輪だったこと、そして撥ねられるまで車の接近に気づいていなかったことがかえって幸いした。
ぶつかる直前に車が見えていたら、緊張して身体を固めてしまったかもしれない。
着地の際に両の前腕を擦りむいたが、それ以外は痣一つ作らずにすんだ。
運転していたご夫婦は病院に行きましょうと言ってくれたが、「いえ、受身を取りましたので」とかっこよく言い残し、ひん曲がった自転車を押して去ったのであった。
受身【実践編】-2

受身は大いに役に立つ。
そして、良い子のみんなは赤信号に飛び出さないよう気をつけよう。


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受身

受身

正直言って、古武道の技法がそのままの形で日常生活に活かされることってほとんどない。
そりゃまあ、稽古で培った基本原理が暮らしの質をじんわりと高めてくれたりはするけれども、夜道で突然大上段に打ち込んできた不審者を剣術奥義・下段籠手で成敗する機会は一生のうちに…多分、ない。
そんな中唯一、即物的に役立つというか、現代人にとっても身につけておいて大いに有益だと思えるものがある。

受身である。

昨今では、高齢者向けの転倒予防体操として脚力強化のプログラムなんかが広く行われていて、それはそれで非常に素晴らしいことであり、みんな足腰がどんどん強健になればいいと思うのだけれど、じゃあ死ぬまでどこにも躓かず一度も転ばずに過ごしなさいって言われると、さすがにちょっと自信がない。
この先あと50年近く生きたとして、一回くらいはうっかり足を滑らせることも避けられないんじゃないかなあ。
そんな時へのもう一つの備えとして、身体を壊さずに受身を取れる技巧は持っておいて損はない、と思う。

そして面白いことに、うまく転べるようになると、逆に今度は転ばなくなる。
いざとなれば受身を取れる自信があるから、バランスを崩した時にも落ち着いて、力まず柔らかなまま対処できるようになる。
受身が身についていることで、受身を使わざるを得ない状況に自分を追い込まずに済む。
武の理想形である。

ここまで書いているうちに、実際に僕の人生の中で受身が役に立った事例を二つばかり思い出した。
続きはまた次回。


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呼吸法

呼吸

最近、稽古場で会員たちを見ていて気にかかること。
呼吸が浅い人が非常に多い。
10秒間、続けて息を吸えない人が何人もいる。

まずは、深く大きく、呼吸ができるようにすること。
特殊な呼吸法とか、丹田とか氣とか、そういう小難しいのはとりあえず置いといていい。
肺を浅くしか遣えていないうちにそんなの気にしたって解りっこない。
腹を柔らかく動かし、長く、たくさん吸って、たくさん吐く。
素人の呼吸法なんてそれで充分。

もちろん呼吸が巧いから武術が強いというわけではなく、それはあくまで要素の一つに過ぎない。
それでも呼吸の深さは身体深部の脱力、柔らかさと密接に関係している。
持久力、疲労の回復、深部からの発力、意識の置き方、様々な面で影響を受ける。
少なくとも、僕は息遣いが下手なまま柔らかな動きに秀でた人を見たことがない。

特に稽古場で時間を割いて取り組んだりはしないのだけど、こういうのは日常の中でちょっとずつ。
ふと気がついたときに、意識してちょっと多めに吸って多めに吐く。
あまり難しく構えずに気長にやってると、そのうち身体が変わる。


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型と個性

型と個性

型稽古に個性は要らない。

スパーリング主体の稽古体系ならばそれぞれの得意手を伸ばしていくことはむしろ必須であろうが、型においては徹頭徹尾、指定された条件を指定された方法で打開してゆくことのみが求められる。
そこでは個人の特性を活かした奇手を放つことは許されない。

こう書くとずいぶん窮屈に思えるが、それも型稽古から得られる理合に自分に思いつく程度の策など軽く超えていく価値があると思えればこそだ。
各人個別の得手に頼ることを許さないということは、言い換えれば型は誰しも習得し得る心身の遣い方を伝えようとしているということになる。
その技法が根源的で理に適っているからこそ、そこに個人の工夫を差し挟んでは本来の意義から遠ざかってしまう。

試行錯誤は全て、我を抑え、型の伝えんとする理合を読み解くことに傾ける。


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剣を受ける

剣を受ける

初心者が初めて相手に向かって木刀を打ち込む稽古が斬返(きりかえし)であり、その次には反対に相手の斬返を『受ける』稽古をすることになる。
萬葉塾においては、この受けを大切な基本として重視し、徹底して身につけてもらっている。
頸部を狙った速く重い打ちを相手に、受け損ねれば大怪我をする可能性もある。
上級者の巧みな打ちは脅威だし、かといって素人の出鱈目な剣筋もまた厄介だ。
この受けがある程度満足にできるようになって初めて、お互いに攻防をやり取りする型稽古に進むのが、安全性においても技術の積み重ねという点においても妥当であろうと考えている。

またそれは、剣を学んでいく上での心の構えを知ることでもある。
攻め込まれる恐怖に身が竦んでしまうこともあるが、逆に打たれている最中だというのに今一つ危機感が足りない人もいる。
剣術において、初めから上位者の手加減を見込んで臨んではいけない。
どんな熟練者だって、ふとした拍子に手元が狂うことはあり得る。
手順の決まった型稽古を通してなお、極限の状況下で斬り結ぶ技量の習得を目指すのだから、上級に進むにつれそれはますます危険な、ギリギリの紙一重を狙った攻防になっていく。
柔らかく落ち着いていることは大切、しかし自分は命を危険に晒す稽古をしているのだという緊張感も共存している、そういう備えの在り方を受けの稽古を通じて見つけてほしい。


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古武道とは何か?

古武道

そもそも古武道とは……『明治維新以前の日本において発祥した各種武術の総称』、という定義になるだろうか。
それ以降に隆盛した現代武道、例えば柔道や剣道なんかと区別するために後世になって作られた、いわゆるレトロニムと言われる語だ。
エレキギターが誕生して、それまでただ『ギター』と呼ばれていた楽器が『アコースティックギター』になったのと同じである。
江戸時代のお侍さんが自分たちのやってることを『古』武道だと思っていたか?
そんなはずはない、彼らにとってはそれが現在進行形だったのだ。

しかもそこには、武芸十八般とも言われる様々な技芸が含まれる。
剣術、居合術、杖術、柔術、弓術、十手に薙刀、馬術に砲術、さらには水泳術なんかも入ったりする。
さらにそのそれぞれに千差万別の流派が存在し、〇〇流、△△流、その一つ一つがまるで違ったことを伝えているのだ。
そう考えると、古武道とはこういうもの、という共通する前提なんか存在しないことが解ってくる。

だから僕は、自分たちにとっての古武道はもっと個人的なものでいいと思っている。
伝統ある流儀を次代に受け継いでいく立場の方々にはまた別のご苦労があるのだろうが、そうした責務も古式の復刻といったことへの関心もない以上、僕は理に適った心身の遣い方を探究するために、便宜上古武道と呼ばれているそれを選んだに過ぎない。
古流の型を用いて稽古し、しかしながらその稽古法も先人とは大きく異なっている部分が多いであろうことを承知の上で、そこから読み解かれ自身の裡に染みついていくもののみに価値を置く。
曖昧な古武道の枠すら明らかに逸脱することもしばしばあるが、それが根源の理に近づく助けになるならそれもまた良し。

萬葉塾において『古武道』という概念の持つ意味合いはそんなところである。


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プロフィール

ピンクさむらい

Author:ピンクさむらい
東京都武蔵野市にて、古武道萬葉塾を主宰。

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